中部エリア
石上神宮
(いそのかみじんぐう)

― 神剣「布都御魂(ふつのみたま)神」を祀る神社 ―



鳥居



拝殿(国宝)



石上神宮楼門(重要文化財)



神剣渡御祭



出雲建雄神社拝殿(国宝)



境内地でのんびりと過ごす鶏

 天理駅から東へ延びる、天理本通りアーケード街を真っ直ぐに進みます。アーケードを抜け、天理教本部を過ぎてしばらく進むと右からの大きな道と合流します。さらに進むと信号のある交差点に出るので、右(南側)へ折れ、布留川を渡って丘陵を登ると右手(東側)に参道が見えてきます。

 神宮は、春日断層崖から西に延びる低い丘陵上に所在しています。北側には神宮と深い繋がりを持つ布留川が流れています。
 杉木立に囲まれた参道や境内では、放し飼いにされた鶏が木の上などから出迎えてくれます。

 本来、神宮には本殿は無く、禁足地を中心とした信仰形態が伝えられていました。古い歴史を誇る神社であると共に、物部氏、大和朝廷、山の辺の道など古代の歴史と織り交ぜて語り伝えられています。
社号 『日本書紀』垂仁・雄略・天武各天皇紀、『古事記』神武天皇段に「石上神宮」、履中天皇即位前紀に「石上振(ふる)神宮」と記されています。
 中世以降は「石上振神宮」・「石上神宮」・「岩上大明神」・「布留大明神」などと称されていましたが、明治16年、石上神宮に復称されました。
創建 『先代旧事本紀』によると、創建は崇神天皇のときとされ、物部氏の遠祖・伊香色雄命が、神剣と伝来の瑞宝を奉斎したとされています。
祭神 祭神は「布都御魂(ふつのみたま)神」で、延喜式には「石上坐布都御魂神社」とあります。『古事記』には、神武天皇東征のおり熊野で難にあわれたとき、天照大神と高木神は建御雷神がかつて国土平定に用いた国平横刀、すなわち布都御魂を下され、危急を救われたとあり、「此の大刀は石上神宮に坐す」と記されています。
社格 延喜式には名神大社とされています。貞観9(西暦867)年、正一位の神階を贈られ、平安時代末期には二十二社の中の七社に、明治4(西暦1871)年には官幣大杜に列せられました。また、同16年に神宮号の復称が許されています。
禁足地 もともと本殿はなく、古来から禁足地が崇拝の対象とされてきました。明治7年に大宮司であった菅政友(かんまさとも)が、政府の許可を得て禁足地を発掘し、約3m四方の石積みの中から鉄素環頭大刀・ヒスイの勾玉、琴柱形石製品、金銅製垂飾品、管玉などが出土しました。
建物 拝殿の後方に大正2年造営の本殿(流造)があります。拝殿は朱塗で平安時代末から鎌倉時代の造営です。楼門には文保2(西暦1318)年の棟木銘があります。
武器 『日本書紀』垂仁紀に、朝廷が造らせた剣一千口を忍坂邑(おしさかのむら)(桜井市東郊)に収め、後に石上神宮に奉納したとあります。管理は垂仁天皇の長子五十瓊敷(いにしきの)命が行い、計十種の部民(楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部)を賜わりました。
物部氏と石上氏 物部氏は河内から進出し、この地方を本拠とした豪族で、朝廷の神剣・神宝を管理し、軍事も担当しました。神庫(ほくら)を管理した物部氏は、その後、石上(いそのかみ)と氏を改め、石上宅嗣(やかつぐ)などが輩出しています。
 祭祀は、孝昭天皇系の春日臣の一族・市川が仁徳天皇のとき神主となり、その子孫が物部首と称して(後、布留宿祢氏と改氏姓)、永く神主をつとめました。

国宝=拝殿、七支(しちし)刀、出雲建雄神社拝殿
重要文化財=楼門、鉄楯、色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)、禁足地出土品


 ハイキングエリア :
     「山の辺の道(北)コース」
     「山の辺の道(南)コース」
     「大国見山展望コース」
 所在地 : 天理市布留町384
 電話 : 0743-62-0900
 交通 : 電車/JR・近鉄天理駅より東方へ徒歩40分
         車/名阪国道「天理東インター」を下り、南へ
         約1.5km
 駐車場 : 有り
 休憩所 : 有り
 トイレ : 有り
 リンク : 石上神宮のHPへ


⇒石上神宮の「パンフレット」     ⇒改訂「天理市史」より
協力:石上神宮