四道将軍・オオヒコノ命 ①

奈良県天理市和爾町
TEL : 0743-63-1001(内208) 天理市観光協会
〔電車〕
JR万葉まほろば線[JR柳本駅]下車 → 徒歩:東北へ約2km/約40分
〔バス〕
国道169号線 奈良交通[白河橋]バス停下車
→ 徒歩:東北へ約1km/約20分
〔車〕
国道169号線 白河橋交差点を東南へ約0.5km、
櫟本高塚公園駐車場から徒歩約12分 中山バス停付近を東へ約2分
駐車場
櫟本高塚公園駐車場
トイレ
櫟本高塚公園公衆トイレ
拝観料等
特になし
拝観時間
特になし
休み
特になし

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伝和爾坂(わにさか)の道標
和爾集落による和爾坂伝承の説明版

伝和爾坂
和爾坂の道標その1

 道沿いの地蔵
和爾坂の道標その2

『古事記』-中巻 〔崇神天皇〕
『日本書紀』-第五巻 〔崇神天皇〕 ~タケハニヤスヒコの反乱~

【現代語訳:記】
  そこでオホビコノ命は、さらに都に引き返して、天皇に申しあげてお指図を乞うと、天皇が答えて、「これは山城(やましろ)国にいるあなたの異母兄のタケハニヤスノ王が、叛逆の野心を起したしるしに違いあるまい。伯父上よ、軍勢をととのえてお出かけなさい」と仰せられて、丸邇(わにの)(おみ)の祖先のヒコクニブクノ命を()えて遣わされた。そのとき、ヒコクニブクノ命は丸邇(わに)坂に()み清めた(さか)(がめ)を据えて神を祭り、(くだ)って行かれた。ところが山城の和訶羅河(わからがわ)にやって来たとき、かのタケハニヤスノ王は、軍勢をととのえて待ちうけて行くてを(さえぎ)り、それぞれ川を間にはさんで向かい立って、たがいに(いくさ)をしかけた。それでその地を名づけて伊杼美(いどみ)という。今は伊豆美(いずみ)という。
 そこでヒコクニブクノ命が相手に求めて、「まずそちらの人から合戦の合図の矢を放て」といった。そこでタケハニヤスノ王が矢を射たけれども命中しなかった。ところがクニブクノ命の放った矢は、タケハニヤスノ王に命中して王は死んだので、その軍勢は総くずれとなって逃げ散った。そこでその逃げる軍勢を追いつめて久須婆(くずは)の渡りにやって来たとき、王の軍はみな攻め苦しめられて、屎が出て(はかま)にかかった。それでその地を名づけて屎褌(くそばかま)という。今は久須婆(くずは)という。またその逃げる軍勢の行くてをさえぎって斬りつけたので、死体が()のように川に浮かんだ。それでその川を名づけて鵜河(うかわ)という。またその兵士を斬り(ほふ)ったので、その地を名づけて波布理會能(ほふりその)という。
こうしてオホビコノ命は平定し終わって、都に上って天皇に復命した。
【現代語訳:紀】
  天皇の(おば)倭迹迹(やまととと)日百襲姫(びももそひめの)(みこと)は聡明で、よく物事を予知された。その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇にいわれるのに、「これは武埴(たけはに)安彦(やすひこ)(孝元天皇の皇子)が謀反を企てているしるしであろう。聞くところによると、武埴安彦の妻吾田媛(あたひめ)がこっそりきて、倭の香具山(かぐやま)の土をとって、頒巾(ひれ)(女性が襟から肩にかけたきれ)のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』といって帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう」と。そこで諸将を集めて議せられた。幾時もせぬ中に、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。それぞれ道を分けて、夫は山背(やましろ)より、妻は大坂からともに(みやこ)を襲おうとした。そのとき天皇は五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(吉備津彦命)を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。また大彦と和珥(わに)氏の先祖、彦国葺(ひこくにぶく)を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮(いわいべ)(神祭りに用いる瓮)を和珥の武坂(たけすきのさか)の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それでその山を名づけて奈良山とよんだ。また奈良山を去って輪韓河(わからかわ)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑河(いどみかわ)とよんだ。今、泉河(いずみがわ)というのはなまったものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答えて「お前は天に逆らって無道である。王室を(くつがえ)そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を射たが当らなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍がれた。そこを名づけて羽振苑(はふりその)(屍体を捨てた場所。今の祝園(ほうその))という。またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎が(はかま)より漏れた。それで甲をぬぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知って、地に頭をつけて「我君(あぎ)」(わが君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅(かわら)という。褌から屎が落ちたところを屎褌(くそばかま)という。今、樟葉(くずは)というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君(あぎ)」といったところを「我君」(和伎の地)という。


 この戦いでは、いくつかの地名とその由来が古事記や日本書紀に記載され、それがおもしろい。
例えば、追い詰められた兵士の着衣から(はかま)にクソのついた様をクソハカマと呼び、これが樟葉(くずは)の地名に由来します。木津川を挟んだ戦いに挑んだことから合戦の場をイドミと呼び、現在の相楽郡水泉(いずみ)の地名に由来します。官軍が現在の大和から山城へ山越えをするときに草木を踏みならしながら進軍したことこら那羅山(ならやま)と呼んだことも記されています。
また、京都府の南部を流れる木津川を記紀が編纂された頃(奈良時代)は泉川と呼び、さらに合戦が起きた崇神天皇の頃(古墳時代)は和訶羅川(わからかわ)と呼んでいました。地名の由来はかなり古く遡る一方で、木津川は時代で呼び名が変化しています。
天理市文化財課 M氏

                               天理市文化財課 M氏

 

 記紀には、崇神天皇に仕える優れた武人としてヒコクニブクの命が登場します。彼は和爾氏の祖人で、タケハニヤス王との戦いから推測して強力な軍隊を保持していたようでした。朝廷の防衛を担っていたのかもしれません。彼はワニ坂で神聖なる戦勝祈願を行っています。ワニ坂はワニ氏の拠点でした。天理市北部の櫟本町、和爾町、楢町の辺りはワニの里として知られ、ワニ氏に関わる伝承が残ります。
 例えば、櫟本町の和爾下神社は記録によれば和爾氏の始祖で天帯彦国押人(あまたらしひこのおしひこ)の命を祭神とし、また彦国葺(ひこくにぶく)の命をかつて祀っていました。そんな和爾下神社は、大型前方後円墳(和爾下神社古墳)の頂上に鎮座しています。また、櫟本町の北に隣接する楢町には楢神社があり、五十狭芹彦(いさせりひこ)の命を祭神としています。タケハニヤス王の妻アタ姫とその軍隊を大坂で破った武人です。この神社は、今は子供の守り神として地域の人々に親しまれています。

                               天理市文化財課 M氏