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てんりの昔ばなし

 


第16話 「おめでとう」を言わない村    第17話 馬魚−馬の顔をした魚    第18話 宝剣小狐丸(布留町)
19.車返し(田部町)    20.「乙女の松」と「しかの足跡石」


16.「おめでとう」を言わない村(萱生町)      上へ移動
 昔、萱生かようの村では、正月になってもしめ縄を飾らず、「おめでとう」も言わない風習ふうしゅうがありました。

 それは江戸時代のお話で、当時は幕藩体制ばくはんたいせいのもとで年貢米ねんぐまいの取り立てがきびしく、農民のうみんの生活は大変でした。

 そのような中、天明てんめい年間にさらに農民を苦しめる大飢饉だいききんおそいました。

 米は実らず、収穫しゅうかくもまったくありません。年貢米どころか、自分たちが食べることすらできない状態じょうたいで、農民たちはとても困っていました。

 ところが年の暮れになっても年貢米がこないので、役人やくにん庄屋しょうやさんの家へ行き、「年貢米を納められないのなら、お前をらえるぞ!」と言っておどしました。

 しかし、無いものを納めることはできません。ついに庄屋さんは番所ばんしょ連行れんこうされ、ろうに入れられてしまいました。それは、年の暮れから正月にかけてのことでした。

 そんなことがあってから、村人たちは、「庄屋さんが自分たちの代わりに縄をかけられて牢屋ろうやに入れられた。庄屋さんは正月の祝いもできないのに、われわれだけがしめ縄を飾り、おめでとうと言ってお祝いをすることはできない。庄屋さんと苦労くろうを共にしよう。」と話し合い、正月の行事を全てつつしむようになりました。

 その後、初詣はつもうでの道中で人にあっても口をきかない風習が生まれたそうです。

 昔の義理人情ぎりにんじょうがよく表れているお話ですね。




 


17.馬魚 ─ 馬の顔をした魚(杣之内町)      上へ移動
 昔、後醍醐ごだいご天皇という天皇がおられました。当時は南北朝なんぼくちょう動乱期どうらんきで、世の中から追われる身であった天皇は、都を落ちのび、笠置かさぎから吉野へ向かっておられました。おしのびで山坂を越え、ようやく今の天理にあった内山永久寺うちやまえいきゅうじにたどりつかれたのです 
  
 後醍醐天皇もそのご乗馬じょうばも、ほっとしたのもつかの間 天皇のご乗馬は疲れが出て力が尽きたのでしょうか、池のほとりで倒れてしまいました。天皇は、倒れた馬を介抱かいほうして、一生懸命助けようとなさいました 
  
 「おい、しっかりしてくれ。元気を出してくれ 私のためによくここまでがんばってくれたのに」と、たてがみをなでて励ましましたが、なすすべもなく、馬は虫の息で天皇に申しました 
  
 「天皇さま、私は吉野までお供しとうございました しかし、私にはもうその力がございません。吉野まで行けないのが残念で、死んでも死にきれません 私はこの池に入って魚になり、天皇さまのお側についてはまいれませんが、道中のご無事ぶじを祈り続けております。先立さきだつみをおゆるしください」と最期さいごの言葉を残し、馬は息絶いきたえてしまいました 
 馬の亡霊が、その池の魚にのりうつったのでしょうか 魚の顔は馬の顔になっていました。そして、草を食べる魚とめずらしがられるようになりました。その魚が天皇のご無事を祈り続け、お守りしたのでしょう。さびしくご出発になられた天皇は、つつがなく旅を続けられ、無事に吉野にお着きになったということです 
  
 馬の顔をした魚は、この本堂ほんどう池だけではなく、奈良東大寺とうだいじの鏡池や石上いそのかみ神宮の池にもすんでおり、いずれも本堂池から移されたものです。この馬魚の実名はワタカといって、琵琶湖びわこ淀川よどがわにすんでいる日本特産とくさんの魚だそうです。誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖はんしょくしたのだろうといわれています 
  
 馬魚が草を食べることから そして後醍醐天皇のご乗馬がこの池のほとりで死んだことから、この伝説が生まれたのでしょう 本当に、馬の顔をしているのでしょうか 




 


18.宝剣小狐丸(布留町)      上へ移動
  ある木枯こがらしが吹く寒い冬の夜、布留ふるの里の女がさびしい菅田すがたの森にさしかかりました。一人ではなんだか心細こころぼそく、こわいなぁ、何も出なければよいが、と思って歩いていると 後ろから呼び止める声がします。女はギョッとして立ち止まりました 
  
 「もし、女衆おなごしさん、私の子どもがおなかをすかして泣いています 母に死なれた子どもはふびんです。どうか乳をめぐんでやってください」と、キツネがいともあわれな声を出して女にうったえました。女はほっとして、「かわいそうな子ギツネよ、私の乳を飲ませてあげましょう。私は毎夜まいよこの時刻じこくに、ここに参りますから」と言い、毎晩まいばん通っては子ギツネに乳をさずけてやりました 
  
 キツネは大変喜び、恩返おんがえしをしようと、ある刀鍛冶かたなかじ弟子でしに化け、向槌むこうづちを打って一振ひとふりの刀をこしらえました。立派りっぱな刀ができあがり、キツネはその刀をお礼にと女におくりました。女は大そう喜んで「小狐丸こぎつねまる」と名付け、自分の守り刀として大切にしていました 

 その頃菅田の森の池に、恋に破れた女の化身けしん大蛇だいじゃが現れ、毎夜大暴おおあばれしては花嫁はなよめを連れ去り、田畑を荒らして 人々を苦しめていました。そのことを聞いた女は、キツネの助けを借りて大蛇を退治たいじしようと、池に向かいました。女はキツネからもらった小狐丸をふるって、大蛇にりつけました 
 大蛇はあばくるい、のたうちまわって抵抗ていこうしましたが、ついに小狐丸にのどをかれ、真っ赤な血で池をめながら退治されてしまいました。村人も大喜び、小狐丸を持った女にみんなで礼を言い、喜び合いました 
 大蛇を退治して帰る途中、三島の庄屋敷しょうやしきの東、姥が堰うばがせきで刀の血のりを洗い清めたといわれています。女は自分の里の布留郷ふるのごうへその刀を持ち帰り、石上神宮いそのかみじんぐう献上けんじょうしました 
  
 小狐丸は、江戸時代に古墳こふん盗掘とうくつ流行りゅうこうした頃、この刀を持って行くとはかのたたりがないといわれ、一時盗賊とうぞくの手に入り、よけに使われていたこともありましたが、その後、ある殿様とのさまの手に渡りました。殿様はあまりのすばらしい刀に、これはなみなみならぬ刀であろうと由緒ゆいしょをたずね、もとの石上神宮に戻ることになりました。何度も盗難とうなんにあった刀でしたが、今はもとの神庫ほくらとして石上神宮の宝蔵ほうぞうに納められています 
  
 刀を抜くと子ギツネの走る姿が現れるというこの不思議ふしぎな刀には、こんないわれがあったのです 




 


19.車返し(田部町)      上へ移動
 田部たべから川原城かわはらじょうに通じる奈良初瀬街道ならはせかいどうに、“車返くるまがえし”というところがあります。この地名の由来ゆらいについては、いろいろの説があるようです 
  
 昔、
桓武天皇かんむてんのう御代みよに、征夷大将軍せいいたいしょうぐん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが車に乗ってここを通りかかりました。するとどうしたことか、にわかに車が後返あとがえりをしだして進まないではありませんか。どうしても車は前に進みません。途方とほうにくれていた将軍の前を、一人の白髪しらがの老人が通りかかりました 
  
 老人は将軍に、「これこれ、この車が動かぬのはな、この地から西の方にある八条村の
菅田すがた神社の社殿しゃでんが東を向いておられる。その前を甲冑かっちゅうのままで通ろうとするからじゃよ」と言いました。そこで将軍は 人をつかわして社殿を南向きに変えさせました。すると不思議ふしぎなことに、車はまた動き出したのです 
  
 それからこの場所を“車返し”というようになったと伝えられています 実際に菅田神社は、ここから西約4キロの所にあり 南を向いておられます。この時に南向きに変わったのかどうかはわかりませんが、またこんな伝説もあります 
  
 昔、白河しらかわ天皇の勅使ちょくしが、多武峰とうのみね大和神社おおやまとじんじゃ石上神宮いそのかみじんぐうなどへ参詣さんけいおりに、車に乗ってここを通ると、にわかに車がころんでしまいました。不思議に思った勅使が側近そっきんの者にうらなわせたところ、「三十ちょう西に菅田明神みょうじんがあり、東を向いておられるのに、その前を車で通るからだ」と出ました。そこで使いをたて、社殿を南向きにし、毎年9月8日に馬を72頭献上けんじょうするとの誓いをたてると、車はなんなく動き出したというのです 
  
 また一説には、都から大和神社に向かう勅使がこの地にさしかかった時 このあたりで争いがあって物騒ぶっそうだったので、なんけてここから京都へ車を引き返しました。そこでこの地を“車返し”というようになったということです 大和神社のちゃんちゃん祭(4月1日)のお渡りに出される千代山鉾やまほこは、この勅使の代わりだともいわれています 
  
 この地は、明治の終わりごろまでは八町はっちょうなわてという野中のなかの道で その道を横切って東から川が流れており、そこに青石橋あおいしばしという橋がかかっていました。今は人家や天理教の詰所つめしょが建ち並び、昔の面影おもかげはありません。また、“車返し”の地名を知る人も少なくなりました 
  



 


20.「乙女の松」と「しかの足跡石」(乙木町)      上へ移動
 昔、常陸ひたちの国から、春日かすがさん(=神様)が白い鹿しかに乗ってお伊勢いせまいりをされました。その帰り道のことです 
  
 今の
名張なばり付近を通り、宇陀うだ阿倍あべを過ぎ、山の辺の道へさしかかりました。乙木おとぎまで来たところで、大きな石にこしをかけ、お休みになりました。そこには大きい松の木があり、すずしい木陰こかげを作っていました。春日さんはともの白い鹿をねぎらい、冷たい石の上にのせて鹿を休ませました 
  
 それからその石には、不思議ふしぎなことが起こるようになりました 
 その頃、子どもが13歳になると、
成長せいちょうを喜んで宮参みやまいりをする「十三詣 じゅうさんまいり」という風習ふうしゅうがありました。十三詣りの途中、その石のそばを通りかかった子どもがふと見ると その石に鹿の足跡あしあとがくっきりと浮かんで見えたのです 「あっ、鹿の足跡だ!」というので、連れの者が「えっ、どれ?」「どこに?」と子どもが指す石を目をこらしてみたのですが 何も見えません。でも、十三詣りの子どもには、はっきりと見えました 不思議なことがあると思いながら、白い神鹿かみしかの足跡は縁起えんぎがよいと喜ばれ、十三詣りには必ずその石に立ち寄るようになりました 
    
 それ以後、その石は「しかの足跡石あしあといし」と呼ばれ、そばの大きな松は「乙女おとめの松」と呼ばれて、春日さんをしのび、村人に親しまれました しかし、明治になって、しまれつつもれてしまったのです。村の人はまた赤松を植えたりしましたが なかなか育ちにくいようで、今は石と数本の松が残っているだけだそうです 

どんな鹿の足跡なのでしょうか。13歳の子どもさんなら、見えるかもしれませんね 
  

  



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