【 国宝 】
東大寺山古墳出土
中平銘入り鉄刀
(背文字部分)
-東京国立博物館蔵-
(長さ約110㎝)







【 国宝 】

七支刀
-石上神宮蔵-
(長さ約75㎝)






 天理市は奈良県の北部に位置します。市中央部を高低差約300mの春日断層崖が南北に延び、西側の奈良盆地と東側の大和高原に区切られています。

 この断層崖は大和高原の隆起と奈良盆地の陥没により生じたとされていますが、この断層崖を境に環境は大きく異なり、両地域に住む人々の気質にも影響を与えています。

 戦国時代の著作とされる『人国記』には、盆地を表郡、大和高原を奧郡と表記し、表郡の人を「人の気名利を好むものおほし」、奧郡の人を「隠る気あり」として、気質の違いに触れています。
 古墳時代以降、盆地に都が置かれたことと、大いに関わっているとの指摘があります。

 また、盆地部のことを「国中(くんなか)」、大和高原など盆地を取り巻く山間部を「山中(さんちゅう)」と呼ぶこともあります。

 それでは市内の歴史を振り返ってみましょう。






 市内では、人々が石器を使い始めた旧石器時代の遺跡はまだ見つかっていませんが、盆地北部の豊田山周辺や布留(ふる)遺跡では、石器の一種である「ナイフ形石器」が見つかっています。

 約1万2千年前には土器が出現し、縄文時代が始まります。大和高原の福住(ふくすみ)町では、約1万年前の早期の遺跡が何ヶ所か見つかっています。盆地では布留町を中心とする布留遺跡で生活跡が見つかっており、早期や中期末~後期初頭の遺構や遺物が出ています。中期と後期の土器には「天理C式」と「天理K式」と名前が付けられ、縄文時代の研究に活用されています。

 縄文時代が終わる終盤の晩期になると、布留遺跡の他に標高の低い、前栽(せんざい)町や平等坊(びょうどうぼう)町で生活が営まれるようになります。
 晩期は、縄文時代の狩猟採集中心の時代から水稲栽培を中心とした時代に変わる直前の時期に当たります。水稲栽培が盆地の低地部で始まる前に、晩期の遺跡が低地部に営まれるようになるのは、大変、興味深いことです。






 弥生時代に入ると、瀬戸内海沿岸を通して伝わってきた稲作によって、人々の定住が促進され、生活環境は大きく変わります。

 市内では西部の平等坊町と岩室(いわむろ)町に所在する平等坊・岩室遺跡や海知(かいち)町の海知遺跡など、市の西側、盆地の低地部で稲作が始まります。その中で平等坊・岩室遺跡は弥生時代を通じて地域の拠点となる集落で、住居の周りには何条もの濠が巡っていました(環濠集落)。

 盆地内にはこのような環濠集落が十個所ほどあり、ある一定の間隔を保って所在していることから、集落を結ぶネットワークが築かれていたと考えられています。その中で、唐古・鍵遺跡(田原本町)は国内でも最大級の規模を有し、盆地内のネットワークの中心だったと考えられています。

 弥生時代の中頃になると、櫟本(いちのもと)町に長寺遺跡が営まれ始めます。遺跡は現在の集落の直下にあり、この地域が生活をする立地として最適だったことが判ります。
 後期には、西名阪道の北側に見える丘陵に、二重の濠を巡らせた東大寺山遺跡が現れます。現在、シャ-プの総合研究所となっているところです。
 また、この遺跡が営まれ始めると同時に長寺遺跡で活動が途絶え、東大寺山遺跡が活動が終える古墳時代初頭になると、また、長寺遺跡で人びとが居住を始めます。このことから、長寺遺跡の人びとが後期になると東大寺山丘陵で生活を始め、何らかの緊張が解けた古墳時代初頭になって、先祖の居住した地に戻ったものと考えられています。

 このような現象は各地で見られ、特に弥生時代の終わり頃には、西日本を中心に多く見られるようになります。古墳時代を迎えるにあたっての政治的な緊張からくる列島規模での動き、と理解されています。

 弥生時代が終わる後期末になると、それまで遺跡が見られなかった南部の柳本(やなぎもと)地域で、集落が営まれるようになります。






 古墳時代初頭(3世紀の中頃)になると、桜井市北部に初期ヤマト王権が成立します。
 初期ヤマト王権の中心は、桜井市の纒向(まきむく)遺跡とされますが、その北側に位置する柳本地域でも、同時代の遺構や遺物が見つかっており、その一角を占めていた可能性があります。

 また、柳本地域の「柳本古墳群」と萱生地域の「大和(おおやまと)古墳群」に桜井市の「纒向古墳群」を加えた三つの古墳群は、総称として「オオヤマト古墳群」と呼ばれています。
 これらの古墳群には、箸墓古墳・景行天皇陵・崇神天皇陵・黒塚古墳・中山大塚古墳・波多子塚古墳・西殿塚古墳・東殿塚古墳など、古墳時代初頭から前期の大型の前方後円墳や前方後方墳があり、初期ヤマト王権の中枢を担った人々の墓とみられます。

 市内の中程、豊井町、布留(ふる)町、三島町、杣之内(そまのうち)町にかけては、弥生時代末から始まる布留遺跡があり、ヤマト王権の軍事を司った物部氏が居住していました。

 物部氏が祭祀を司った石上神宮は七支刀(国宝)で有名ですが、その北を流れる布留川近辺の発掘調査では、5世紀~6世紀代の総柱建物跡・竪穴住居跡・大溝・工房跡・刀装具の破片、玉、鉄滓(てっさい)、馬の歯などが多数出土しており、物部氏の活動の一端が伺えます。

 物部氏の奥津城である「墓域」は、布留川左岸の南側に拡がる杣之内古墳群と、右岸の北側、豊田山丘陵上に拡がる石上・豊田古墳群が築かれています。

 物部氏の本拠地は現在の大阪府八尾市とされますが、布留遺跡にいつから居を構え、石上(いそのかみ)神宮の祭祀を司るようになったかはまだよくわかっていません。587年、物部守屋は蘇我馬子との戦いに破れ、大阪の本拠地は蘇我氏に接収され、跡形もなくなってしまいます。
 しかし、布留遺跡では、石舞台古墳と同時期で、石室もほぼ同じ規模の塚穴山古墳が造られています。さらに、集落は飛鳥・奈良時代にへと継続しています。このことは、布留の物部氏は守屋と馬子の争いに深く関わらなかったことを物語っています。

 日本最古の道といわれる「山の辺の道」は、桜井市の金屋あたりから大神(おおみわ)神社・石上神宮を通り、奈良へ抜ける道でした。この道沿いには、万葉集に詠まれた場所がたくさんあります。当時、この道はヤマト王権にとって大変重要な道で、多くの人が行き来したものと思われます。

 当時の詳細なルートは不明ですが、景行天皇陵、崇神天皇陵の近辺を通る南北の道だったようで、現在は桜井市の金谷から石上神宮までの東海自然歩道が「山の辺の道・南ルート」として整備されています。

 石上神宮から北は「山の辺の道・北ルート」とされ、この道を北へ進むと櫟本に到ります。ここには7人の天皇に9人の后妃を出したとされる古代の豪族「ワニ(和爾・和珥)」氏が居住していました。
 現在の和爾の集落が居住域と見られ、南に広がる東大寺山古墳群や北側の寺山古墳群などが一族の墓域と考えられています。東大寺山古墳群には、後漢末の年号をもつ鉄刀(国宝)が出土した東大寺山古墳、史跡赤土山古墳、和爾下神社古墳など前期の大型前方後円墳を見ることができます。

 この時代、市内ではたくさんの古墳が造られています。これらは先に挙げたワニ氏に関わる北部の櫟本近辺、布留氏に関わる中部の布留近辺、そしてヤマト王権に関わる南部の柳本近辺に分けることができます。中でも柳本には、その数600~1000基といわれる古墳時代後期の龍王山古墳群が所在します。そのほとんどは小規模な円墳ですが、数的には全国トップクラスとなります。






 古代に入ると、市内では、奈良と桜井・橿原を結ぶ上ッ道、中ッ道、下ッ道が整備されます。7世紀中頃のことです。交通網が整うにともない、天皇の宮は桜井地域から離れ、盆地のあちこちで営まれるようになります。はっきりとした場所は不明ですが、市内では安康天皇の石上穴穂宮や仁賢天皇の石上広高宮があったと伝えられています。

 櫟本では前代に活躍した「ワニ」氏から大宅、柿本人麻呂を輩出した柿本氏、櫟井氏、在原業平を排出した在原氏、粟田氏、小野妹子を輩出した小野氏などの諸氏に分かれ、この地域に居住しました。

 布留の物部氏は、天武天皇の時に石上朝臣の姓を賜り、奈良時代から平安時代初期にわたり、石上氏として上級貴族の地位を保ちます。

 柳本地域では大倭氏が代々「大和神社」の神主を世襲しました。この大和神社は創建が古く、崇神天皇即位6年に宮中内から移され創祀された、との記録が残っています。
 また、弘法大師の開基とされる長岳寺は、大和神社の神宮寺とも伝えられ、広い寺域と多数の寺坊を有していました。

 大和高原の福住地域は、この頃、都祁(つげ)郷の一部となっていました。この地域には古くから、冬の間に氷を切り出して保存し、夏に朝廷へ献上する氷室(ひむろ)があり、皇室との関係が深い地域でした。氷の献上は近世初頭まで続けられたそうで、現在も氷室跡の大きな窪みを見ることができます。






 中世には貴族や社寺による荘園の開発が盛んになりますが、大和では東大寺や興福寺など南都寺院の勢力が伸びてきます。市内でも石上神宮・大和神社・興福寺・東大寺や皇室・豪族などの支配が広がります。
 その中にあって、長岳寺や内山永久寺は隆盛を誇りました。特に内山永久寺は12世紀に鳥羽院の御願によって開基されたと伝えられる大寺院で、多くの諸堂塔の他、幾つもの坊舍があり、「西の日光」と言われるほどに栄えました。
 その後、南北朝以降になると全国的に武士が台頭し、寺社領を支配下に収めていきます。市内では十市氏、豊田氏、福住氏、山田氏、苣原氏、仁興氏、藤井氏などの武士がいました。これらの武士は大小の山城を構え、守りとしましたが、さらに小さな武士集団は、集落を掘や土塁で囲んで守りとしました。萱生町、竹之内町、別所町などでその名残を見ることができます。





 中世の争乱も織田信長と豊臣秀吉の天下統一により、収束し、近世を迎えます。大和は織田信長を後ろ盾とした筒井順慶の元に統一され、その後、豊臣秀長が郡山城主となりますが、豊臣氏の没落と共に徳川方の勢力圏となります。

 しかし、大和の所領は複雑で天領、大名領、社寺の朱印地などが入り乱れ、明治時代まで大和が一つにまとまることはありませんでした。市内も例外ではなく、一村が二分されて領主が異なる「入組地」も存在しました。
 文化年間(1804~1817年)の記録には所領の数、25ヶ所とあります。主な所領としては、柳本藩、津の藤堂藩、東大寺領などです。

 柳本藩は石高一万石で、藩祖は織田尚長です。尚長の父は織田信長の弟、織田源吾長益(有楽斎)で、尚長は五男にあたります。東京の有楽町は有楽斎が住んでいたことから付いた地名です。柳本藩に城はなく、二町四方の柳本陣屋を政庁としました。

 この時代、市内で栄えた集落として、桜井と奈良を結ぶ上街道沿いの櫟本村と丹波市(たんばいち)村、柳本村の三村があります。






 明治維新を迎えると、割拠されていた大和が一つにまとまっていきます。明治4年の廃藩置県により、それまでの所領は廃止され、市内は柳生県、柳本県、柴村県、津県もしくはその一部にまとめられます。

 その後、奈良県が設けられますが、堺県、大阪府に編入され、明治20年に奈良県が再設置されて、今日の姿に至ります。

 また、明治初期の廃仏毀釈により、「大和の日光」といわれた内山永久寺をはじめとして、市内の多くの寺院が廃寺となり、多くの貴重な文化財が散逸してしまいました。

 本市の前身は明治21年の「町村制」により誕生した7村が基盤です。明治26年には、山辺村、櫟本村、柳本村の3村が町制を敷き(山辺村はその後、丹波市町と改称)、地域の中核となります。

 そして、昭和29年、6町村が合併して「天理市」が誕生しました。

 市の名称は、天保9年に三島町で始まった天理教に由来しますが、参拝者の増加にともない市街地も拡大していき、今日の景観となっています。










 以上、大まかな天理の歴史をご紹介しました。現在の天理市は西名阪自動車道、名阪国道、京奈和自動車道、JR、近鉄など、交通の便に恵まれた地に立地します。
 大阪へ鉄道で約1時間の距離でありながら、大和青垣国定公園に含まれ、山の辺の道を中心に万葉のロマンに触れることのできる場所でもあります。

 多くの皆さんに天理へ訪れていただき、心に残る発見をしていただければ幸いです。