①  道が造られた時期は不明ですが、壬申の乱(672年)で大海人皇子軍が上ッ道、中ッ道、下ッ道に軍を配し、上ッ道を進撃する近江朝廷軍(大友皇子軍)と箸墓近くで戦ったとの記録から、この頃には存在していたことが判ります。  上ッ道の西には、それぞれ2.1㎞の間隔で、中ッ道と下ツ道が併行して延びています。これら3つの道はほぼ同じ時期に造られた道とみられますが、上ッ道にはそれまでの幹線道であった山の辺の道の付け替え機能も含まれていたとみられ、当初は重要な道であったと思われます。  桜井市北部の箸墓近辺から三昧田町や佐保庄町にかけては、今でも上ッ道の痕跡を辿ることができます。  中世以降、上ッ道の後を受けて、上街道と呼ばれる街道が幹線道として発達します。この道は大和神社の北側で東へ曲がり、約1㎞ほど先で北へ折れ、三昧田町内を幾度か曲がりながら西寄りに進み、福知堂町に至ります。福知堂町からは奈良の猿沢池まで真っ直ぐに北へ伸びる道で、今でも生活道路として機能しています。 ②  JR長柄駅、柳本駅、巻向駅、三輪駅から辿ることができます。 ③  上ッ道沿いには古い町並みが多く、集落と集落の間はのどかな水田地帯となっています。 ④  上ッ道は現在、大和神社の参道入口から北、数百mまで現存する道として確認できますが、それから北は不明です。明治時代の古い地図には、さらに北の杣之内町の西山古墳辺りまで里道が表示されており、この地域までは確認することができます。  その先には、布留川が流れ、さらに北には布留川北北流が流れています。この北北流は、中世まで畑作もできなかった程の湿地帯で、大雨時には幅数百メートルに渡って、幾筋もの流れを造る川でした。  このことから、杣之内町から北へは、東へ向きを変えて石上神宮のある山沿いを進むか、西の低い方へ向かい途中で北へ折れて進むかの二択しかありませんでした。この状況は湿地帯が安定する、中世まで続きます。  市内中央部から北にかけてのルートがどの様になっていたのか、歴史上重要な道であり、大変興味の持たれるところです。  ハイキングエリア :近くにハイキングエリアはありません。  所在地 : JR巻向駅東側、南北方向の道  駐車場 : 無し  休憩所 : 無し  トイレ : 無し