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オンザロックのさきがけ

オンザロックのさきがけ

仁徳天皇の時代、闘鶏氷室発見 福住町

  • 氷室神社の社殿
  • 復元氷室
  • 氷室跡

奈良県天理市福住町淨土
TEL : 0743-63-1001(内208) 天理市観光協会


〔電車〕
なし
〔バス〕
天理駅発/六郷小学校行:浄土下車 徒歩約5分(1日2本運行)
〔車〕
名阪国道、福住インターより北へ約700m

駐車場: 有り
トイレ: 有り
拝観料: 無料
拝観時間: 特になし
休み: 特になし

このスポットに関するお話

『日本書紀』-巻第十一 〔仁徳天皇〕

六十二年夏五月、遠江国の国司が申し上げた。「大きな樹があって大井川から流れて、河の曲り角にとまりました。その大きさは十囲とおだき。(囲は三尺)根本は一本で、先は二股になっています」と。やまとのあたい吾子あごを遣わして船に造らせた。南海からめぐって難波津に持ってきて御船とした。この年、額田ぬかたの大中津彦おおなかつひこ皇子のみこが、つげ(奈良県東部山間地一帯)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、いおの形であった。使者に調べさせると、帰って来て「むろです」という。それで闘鶏つけの稲置いなき大山おおやまぬしをよんで問われ、「あの野中にあるのは何の窟だ」と。「氷室ひむろです」という。皇子は「そのおさめた様子はどうなのか、また何に使うのか」と。「土を掘ること一丈あまり、かやを以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑い時にみずさけにひたして使います」と。皇子はその氷をもってきて、御所に奉られた。天皇はお喜びになった。これ以後師走になる毎に、必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばった。

 天理市福住町をはじめ奈良県東部山間地一帯では、冷蔵庫もなかった古代に、冬の寒い時期に池で厚い氷を作り、それを切って山に掘った鉢状の穴に入れてススキなどをかぶせて保存し、夏に取り出して使用していました。その氷を保存した穴を氷室ひむろといいます。
 その用途は、天皇などが亡くなったときに遺体を保存するのに使用されたり、お酒に入れてオンザロックとしたり、削ってかき氷にして食べたりしていました。また、氷の出来具合でその年の吉凶なども占っていたようです。
 この一帯は、古代には闘鶏国つげのくにと呼ばれて、古代小国家を形成していました。
 そこでは、おおくの氷室が作られ、奈良の都・平城京や平安京に運ばれました。
 昭和63年、平城京で長屋王邸跡で大量の木簡が発掘されました。その中に「都祁氷室」のことが書かれた木簡が含まれていました。
 これにより、福住地方から平城京の長屋王邸宅に氷室の氷が運ばれたことが証明され、また、その記述内容には『日本書紀』と一致する部分がありました。
 福住には、氷の神をまつる「氷室神社」があります。

「福住いにしえ会」O氏

 福住には古代の氷室跡が今も20基以上も残っています。これは、この地が標高400㍍から500㍍の位置にあり、国中くんなかと呼ばれる奈良盆地に比して気温が5度ほど低く、奈良の都・平城京からは20㎞未満の距離と当時としては比較的近距離と、気候的にも地理的にも氷室を作るに最適の地であったためと思われます。
 また、氷室神社は夏でもヒンヤリとするような杜に鎮座し、允恭いんぎょう天皇3年(5世紀)の創建と伝えられ、その歴史はたいへん古いものです。
 毎年、秋の例祭以外に、7月1日には献氷祭がおこなわれ、冷凍業者なども遠く県外から参拝されます。 
                               「福住いにしえ会」O氏

 天理市福住町と奈良市長谷町との境界付近の山頂に、「塔の森さん」と地元の人が呼ぶ場所があります。
 この塔の森には凝灰岩製の六角六重石塔があります。もとは十三重塔であったようですが、壊れて現在は六重塔となっています。作られたのは奈良時代とみられ、部分的に壊れてはいますが、随所に巧みな作風がみられる立派なものです。
 古代、福住をはじめとするこの東部山間地一帯は、闘鶏国つげのくにと呼ばれていました。塔の森には、その闘鶏国を治めていた闘鶏稲置つげのいなぎの墓所とされています。闘鶏稲置に関しては、『日本書紀』仁徳天皇の条に額田大中彦皇子へ氷室の氷を献上した人物との記述があり、仁徳天皇、額田大中彦皇子とともに闘鶏稲置大山主命として福住の氷室神社に祀られています。
 毎年7月1日に行われる氷室神社の「献氷祭」前日に、この塔の森で早朝より祭祀が執り行われます。この石塔は、現在、奈良県指定の文化財に指定されています。

「福住いにしえ会」O氏

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