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天理の歴史


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 天理市は奈良県の北部に位置します。市中央部を高低差約300mの春日断層崖が南北に延び、西側の奈良盆地と東側の大和高原に区切られています。
 この断層崖は大和高原の隆起と奈良盆地の陥没により生じたとされていますが、この断層崖を境に環境は大きく異なり、両地域に住む人々の気質にも影響を与えています。
 戦国時代の著作とされる『人国記』には、盆地を表郡、大和高原を奧郡と表記し、表郡の人を「人の気名利を好むものおほし」、奧郡の人を「隠る気あり」として、気質の違いに触れています。
 古墳時代以降、盆地に都が置かれたことと、大いに関わっているとの指摘があります。
 また、盆地部のことを「国中(くんなか)」、大和高原など盆地を取り巻く山間部を「山中(さんちゅう)」と呼ぶこともあります。
 それでは市内の歴史を振り返ってみましょう。


旧石器・縄文時代

 市内では、人々が石器を使い始めた旧石器時代の遺跡はまだ見つかっていませんが、盆地北部の豊田山周辺や布留(ふる)遺跡では、石器の一種である「ナイフ形石器」が見つかっています。
 約1万2千年前には土器が出現し、縄文時代が始まります。大和高原の福住(ふくすみ)町では、約1万年前の早期の遺跡が何ヶ所か見つかっています。盆地では布留町を中心とする布留遺跡で生活跡が見つかっており、早期や中期末~後期初頭の遺構や遺物が出ています。中期と後期の土器には「天理C式」と「天理K式」と名前が付けられ、縄文時代の研究に活用されています
 縄文時代が終わる終盤の晩期になると、布留遺跡の他に標高の低い、前栽(せんざい)町や平等坊(びょうどうぼう)町で生活が営まれるようになります。
 晩期は、縄文時代の狩猟採集中心の時代から水稲栽培を中心とした時代に変わる直前の時期に当たります。水稲栽培が盆地の低地部で始まる前に、晩期の遺跡が低地部に営まれるようになるのは、大変、興味深いことです。


弥生時代

 弥生時代に入ると、瀬戸内海沿岸を通して伝わってきた稲作によって、人々の定住が促進され、生活環境は大きく変わります。
 市内では西部の平等坊町と岩室(いわむろ)町に所在する平等坊・岩室遺跡や海知(かいち)町の海知遺跡など、市の西側、盆地の低地部で稲作が始まります。その中で平等坊・岩室遺跡は弥生時代を通じて地域の拠点となる集落で、住居の周りには何条もの濠が巡っていました(環濠集落)。
 盆地内にはこのような環濠集落が十個所ほどあり、ある一定の間隔を保って所在していることから、集落を結ぶネットワークが築かれていたと考えられています。その中で、唐古・鍵遺跡(田原本町)は国内でも最大級の規模を有し、盆地内のネットワークの中心だったと考えられています。
 弥生時代の中頃になると、櫟本(いちのもと)町に長寺遺跡が営まれ始めます。遺跡は現在の集落の直下にあり、この地域が生活をする立地として最適だったことが判ります。
 後期には、西名阪道の北側に見える丘陵に、二重の濠を巡らせた東大寺山遺跡が現れます。現在、シャ-プの総合研究所となっているところです。
 また、この遺跡が営まれ始めると同時に長寺遺跡で活動が途絶え、東大寺山遺跡が活動が終える古墳時代初頭になると、また、長寺遺跡で人びとが居住を始めます。このことから、長寺遺跡の人びとが後期になると東大寺山丘陵で生活を始め、何らかの緊張が解けた古墳時代初頭になって、先祖の居住した地に戻ったものと考えられています。
 このような現象は各地で見られ、特に弥生時代の終わり頃には、西日本を中心に多く見られるようになります。古墳時代を迎えるにあたっての政治的な緊張からくる列島規模での動き、と理解されています。
 弥生時代が終わる後期末になると、それまで遺跡が見られなかった南部の柳本(やなぎもと)地域で、集落が営まれるようになります。

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