崇神天皇陵

崇神天皇陵すじんてんのうりょう

柳本町 柳本町

  • 崇神天皇陵正面の拝所
  • 石碑
  • 崇神天皇陵から見た夕日

奈良県天理市柳本町


〔電車〕
JR万葉まほろば線[JR柳本駅]下車 → 徒歩:東北へ約1km/約15分
〔バス〕
奈良交通[天理駅] → 「桜井駅北口行」
[柳本バス停]下車 → 徒歩:すぐ
〔車〕
名阪国道、天理東インターより南へ約7km

駐車場: 崇神天皇陵駐車場
トイレ: 柳本交差点東側:公衆トイレ
拝観料: 無料
拝観時間: 特になし
休み: 特になし

このスポットに関するお話

『古事記』-中巻 〔崇神天皇〕 『日本書紀』-巻第五〔崇神天皇〕

【現代語訳:記】
こうしてそれぞれ遣わされた国を平定し服従させる任務を果たして、これを天皇に復命した。そして天下は泰平になり、国民は栄えることになった。そこで初めて天皇は、男の弓矢で得た獲物や、女の手で織った織物などの調つきの品を貢納させられた。そこでその御世をたたえて、「初国はつくに知らしし御真木みまきの天皇すめらみこと」と申すのである。またこの御世に、灌漑かんがいのために依網よさみのいけを作り、また軽のさかおりのいけを作った。天皇の御年は百六十八歳。
戌寅つちのえとらの年の十二月に崩御になった。
御陵は、山辺道やまのべのみちまがりの岡のほとりにある。

【現代語訳:崇神紀】
天皇は即位されてから、六十八年の冬十二月五日、崩御された。ときに年百二十歳。
翌年八月十一日、山辺やまのへの道上みちのえのみささぎ(天理市柳本町)に葬った。

 崇神天皇陵は、幕末に柳本藩が潅漑かんがい利用も兼ねて大改修し、当初の姿とは異なるようですが、周濠がとても綺麗です。堤防の上に立つと、壮大な周壕を巡らした堂々たる墳墓であることがよくわかります。
 記紀の時代には、すでに「山の辺の道」が崇神天皇陵のかたわらを通り、そこで曲がっていたことが想像されます。
 従来より、崇神天皇陵と景行天皇陵は混同されてきましたが、この改修工事の完成直前の慶応元年(1865)2月に、谷森善臣の『山稜考』の説が認められ、崇神天皇陵と冶定されたそうです。
 この陵は、龍王山麓の西に延びる丘陵の上に築かれた、全長約242メートルの前方後円墳で前方部を西に向けています。正面通路の北側がアンド山古墳、南側が南アンド山古墳の陪塚です。宮内庁の管轄する古墳ですから、研究者や国民は、自由に立ち入りできませんので、内部施設、副葬品ともに不明ですが、改修の際に、周壕から内行花文鏡に似た模様の銅板が発見され、注目されました。

天理市山の辺の道ボランティアガイドの会 H氏

 柳本は古来より水利に恵まれず、水不足に悩んでいました。
 幕末のころ、尊王論が高まり、江戸幕府が、荒れはてていた御陵修理を各地の大名に命じました。柳本藩主の織田信成は勤王にあつく、当時は小藩のため財政が極度に苦しい状態でしたが、万難を排して修補工事にあたりました。その際に幕府と直接交渉して、堀を規定より広くし、農民が水に難渋しないようにと、水出しする特権を得ました。
 また堤防には松の樹を植えることが決められていましたが、後年繁茂すると田畑に障害となることを恐れて、藩祖の織田長益の好んだ桜を植えることにしました。これが明治のはじめには「柳本の御陵の桜」として大変有名になりました(残念ながら明治中期からの国家体制のため桜は伐採され松並木に変えられてしまいました)。
 この功績に感謝して、柳本町自治会では、現在でも毎年7月に藩主の子孫も招待して「藩主祭」を行い、顕彰碑が菩提寺の專行院せんぎょういんに建てられています。

天理市山の辺の道ボランティアガイドの会 H氏

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