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今も残る天理の 昔ばなし

朝日寺と隔夜僧

 朝和地区の、佐保(さほの)(しょう)町の上街道のまがり角に、朝日という集落があります。今は人家も数戸ですが、むかし、ここに有名な朝日山(あさひざん)円通寺(えんつうじ)という大きな寺がありました。この寺は街道筋にあったため、旅人はその寺に寄って休みました。そして傍らの店で温かいどじょう汁を食べ、旅の疲れを癒したのでしょうか。「ここは権現(ごんげん)(ふじ)の棚、朝日に輝くどじょう汁」とうたわれ、憩いの場になっていました。

 そこがなぜ朝日という地名になったのでしょう。それは、むかし、修行僧が修行のため、奈良と長谷(はせ)におこもりをして、千日間通う行を積みました。奈良の(かく)夜堂(やどう)にこもり、夜暗いうちに奈良を発ち、長谷へ向かうのです。暗かった空は夜明けとともに白みかけ、先を急ぐ僧は、朝和のこの地へ来て、ホッと一息つくと、丁度、朝日が登って夜が明けました。明るい太陽を拝み、そして、また長谷へ向かって歩いていきました。

 長谷にもまた、隔夜堂があり、一晩おこもりをして行をした僧が、暗いうちに起き出し、また奈良へと街道を歩いていきました。夜も白み、朝和のこの寺に来ると、輝くような朝の陽が登って来ました。奈良へ行く僧、長谷へ向かう僧と出会いつつ、一緒に朝日を拝んでは、北と南に別れ、また出会って、千日の修行を積みました。大勢の僧が、立派な僧にと、こぞって隔夜の行を積み通うのですが、千日の行は、なかなか成し終える人は少なかったようです。

 「奈良初瀬(はせ)の半ばなるかな朝日寺」という歌が残っているように、隔夜僧達が、朝日を拝する場所ということで、朝日寺といわれるようになりました。

 しかし、明治八年に廃寺となり、今は寺跡に淋しく小さな観音堂が建てられています。裏地の、大きないちょうの株元に立って居られる(しょう)観音(かんのん)立像(りゅうぞう)石仏(せきぶつ)には、(天文二十三年(きのえ)(とら)十二月□日、各夜(かくや)(かく)(えん))と書かれてあり、長谷型といわれる観音様は、覚円という隔夜僧が、千日の行を成し得た満願を期して朝日寺を建て、寺の本尊に安置したともいわれています。他に元和(げんな)八年の石塔、元和九年、承応(じょうおう)三年の船形(ふながた)板碑(いたひ)をはじめ五輪石塔、宝筐印塔(ほうきょういんとう)などがあり、昔の寺の盛んな様子をしのぶことが出来るのです。

 また他に、千日行の満願碑が、柳本上長(かみなん)()の大念仏寺にも、勾田(まがた)町の(じょう)(こく)()にも(天正五年)(けち)(がん)の名号碑があり、天理市に三体もこのような碑があることは他に珍しく、隔夜僧の通う街道で、なじみ深かったということがわかります。隔夜僧の中には、道中頼まれて届け物を運ぶ飛脚(ひきゃく)になったりして、行を満たすことが出来ずに終わった人も多く、満願修行の偉大さを思い知ることが出来ます。

 「朝日寺の三つ葉うつぎの其のもとに黄金千枚、後の世のため」と俗にうたわれた三つ葉うつぎの()(ぼく)もこの寺跡にあります。その根元に埋もれているという黄金千枚を掘ると死ぬと伝えられていましたが、葉が三つに分かれているという、三つ葉うつぎは、隔夜僧と何かかかわりがあるのでしょうか。



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