むかし、長柄町の北東に、臨済宗の大きなお寺がありました。三層の塔や多数の寺院が建ち、その中に福智堂というお堂がありました。
しかし、大きな寺も、いつの頃からか廃れてしまい、一院は柳本に移して専行院となり、もう一院は丹波市の勾田に移して浄国寺と名づけられました。
福智堂だけが淋しく残っていましたが、天正十四年、十市城が落ちた時、兵火に焼かれてしまい、寺も堂もすっかり灰になってしまいました。焼け落ちた瓦は丘になるほどで、大塚池の北方にあった小さな丘は、寺の瓦が埋もれて出来たといわれていました。太平洋戦争の時、飛行場の道路づくりで掘りくずされ、その時大量の寺の瓦が出土したということです。
福智堂の地名はその寺の名残りで、集落には今も塔の東、東の寺、寺の西という小字が残り、大きな寺だった頃がしのばれます。