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今も残る天理の 昔ばなし

影媛伝説

 古代、大和高原の山裾を()うように、三輪山(みわやま)のふもとから石上布留(いそのかみふる)を通り、奈良へと通じる道がありました。これが大和の最も古い交通路の一つ、山の辺の道です。

 かつての道筋は歴史の中に埋もれてしまい、今日、全線を的確に定めることはできませんが、部分的にそれと考察できる地域では、約90m前後の等高線に沿う曲がりくねった細い道に名残を留めています。

 沿道には今も記紀・万葉集ゆかりの地名や伝説が残り、神さびた社や古寺、古墳などが次々に現れて、訪れる人を古代ロマンの世界へといざないます。今回は、その中の「影媛(かげひめ)伝説」をご紹介しましょう。

 五世紀末、ひとりの美女をめぐって二人の男が争った悲劇を『日本書紀』は伝えています。女は物部(もののべ)()の娘、影媛。争ったのはときの皇太子(のちの武烈(ぶれつ)天皇)と、朝廷の権力者だった平群(へぐりの)()(とりの)(おおきみ)の子、(しび)でした。

 ()柘榴()(いち)の歌垣で、すでに影媛の心は(しび)のもので自分の意のままにならないと知った皇太子は、大伴金村(おおとものかねむら)に命じて(しび)平城山(ならやま)で殺し、さらに()(とり)をも攻め滅ぼしてしまいます。

 恋人の身を案じて北へ向かった影媛は、愛する男の無惨な死を目にし、泣きながら歌います。

   (いそ)(かみ)布留(ふる)を過ぎて (こも)(まくら)高橋過ぎ

   (もの)(さは)大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ

   妻(こも)小佐保(をさほ)を過ぎ (中略)

   泣き(そぼ)ち行くも 影媛あはれ

 海柘柑市から布留、大宅、春日から平城山へ・・・。影媛がたどったこの道こそ、古代の山の辺の道だったと思われます。()()(した)神社の境内には、日本書紀のこの一節を記した石碑が建てられています。



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