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今も残る天理の 昔ばなし

車返し

田部たべから川原城かわはらじょうに通じる奈良初瀬街道ならはせかいどうに、“車返くるまがえし”というところがあります。この地名の由来ゆらいについては、いろいろの説があるようです。

昔、桓武天皇かんむてんのう御代みよに、征夷大将軍せいいたいしょうぐん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが車に乗ってここを通りかかりました。するとどうしたことか、にわかに車が後返あとがえりをしだして進まないではありませんか。どうしても車は前に進みません。途方とほうにくれていた将軍の前を、一人の白髪しらがの老人が通りかかりました。

老人は将軍に、「これこれ、この車が動かぬのはな、この地から西の方にある八条村の菅田すがた神社の社殿しゃでんが東を向いておられる。その前を甲冑かっちゅうのままで通ろうとするからじゃよ」と言いました。そこで将軍は、人をつかわして社殿を南向きに変えさせました。すると不思議ふしぎなことに、車はまた動き出したのです。

それからこの場所を“車返し”というようになったと伝えられています。実際に菅田神社は、ここから西約4キロの所にあり、南を向いておられます。この時に南向きに変わったのかどうかはわかりませんが、またこんな伝説もあります。

昔、白河しらかわ天皇の勅使ちょくしが、多武峰とうのみね大和神社おおやまとじんじゃ石上神宮いそのかみじんぐうなどへ参詣さんけいおりに、車に乗ってここを通ると、にわかに車がころんでしまいました。不思議に思った勅使が側近そっきんの者にうらなわせたところ、「三十ちょう西に菅田明神みょうじんがあり、東を向いておられるのに、その前を車で通るからだ」と出ました。そこで使いをたて、社殿を南向きにし、毎年9月8日に馬を72頭献上けんじょうするとの誓いをたてると、車はなんなく動き出したというのです。

また一説には、都から大和神社に向かう勅使がこの地にさしかかった時、このあたりで争いがあって物騒ぶっそうだったので、なんけてここから京都へ車を引き返しました。そこでこの地を“車返し”というようになったということです。大和神社のちゃんちゃん祭(4月1日)のお渡りに出される千代山鉾やまほこは、この勅使の代わりだともいわれています。

この地は、明治の終わりごろまでは八町はっちょうなわてという野中のなかの道で、その道を横切って東から川が流れており、そこに青石橋あおいしばしという橋がかかっていました。今は人家や天理教の詰所つめしょが建ち並び、昔の面影おもかげはありません。また、“車返し”の地名を知る人も少なくなりました。



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