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布留遺跡
古代豪族・物部氏の里
布留遺跡は春日断層崖から流れ出る布留川が形成した扇状地の周辺部に営まれた遺跡で、縄文時代から近世まで続く遺跡です。遺跡の範囲は、東西約2㎞、南北約1.6㎞です。特に縄文時代早期や中、後期、そして弥生時代末から古墳時代にかけて大きな遺跡となり、その中でも古墳時代は規模が最も大きく、大和王権の軍事部門を司った物部氏の本拠として栄えました。
この遺跡の調査で出土し、命名された「布留式土器」は、その後、全国で確認されるようになり、今では、大和王権の勢力拡大と共に各地に運ばれ、作られた土器であることが判っています。
布留式土器はこの地で最初に作られたわけではありませんが、古墳時代前期の土器として、この名称は全国で使われています。
遺跡の調査はまだ一部分しか済んでおらず、全体を語れるほどではありませんが、当時の様相を明らかにする遺構や遺物がたくさんあります。
この頃の布留川は現在と違い、まだ水量の多い川でした。氾濫源の発掘調査では上流から流されてきた、1mを超える大きな石がたくさん見つかっています。
このように古墳時代に入っても扇状地はまだ安定しておらず、人々は扇状地の縁辺部や高いところに住んでいましたが、時代が下ると共に安定し、古墳時代中・後期には活動域が広い範囲に拡がります。
主な遺構を紹介すると、布留川の北側では埴輪を樹立した祭祀場跡や多量のガラス製品と玉類、刀剣の把や鞘など80点余を含む多量の木製品などが出土しました。
刀剣などの木製品は幅10mの川に投棄された状態で見つかり、東方のやや高いところに玉類や刀装具などの工房があったものと考えられます。
対岸にあたる、布留川の南側では5世紀後半に掘られた幅20mもある人工の溝、大きな倉庫と見られる複数棟の総柱建物、祭祀場と推定される石を敷き詰めた斜面、鉄製品を作った鍜冶工房跡、そして、多量の馬歯や馬骨、玉類、鉄製品を作るときに出る鉄滓、などが見つかっています。
人工の溝は、布留川から水を引くためのもので『日本書紀』履中天皇四年の条の「冬十月に、石上溝(いそのかみのうなで)を掘る」という記事に対応する溝とする見方もあります。
総柱建物は最大のもので5間×5間(約11m×9m)もあります。総柱であることから重量のあるものが収納された建物と考えられます。大溝の近辺で作られたものが納められていたのでしょうか。
これら、南側の遺構群は布留川南岸を西に延びる低丘陵上に立地し、山裾となる東側には石上神宮が所在します。
天理大学から東にかけての地域に特殊な遺構が集中していることから見て、遺跡の中心域は石上神宮から天理大学にかけての低丘陵と考えられます。石上神宮の西側には平坦なエリアがあり、大きな柱穴や、造成した跡などが見つかっています。見晴らしが良く、物部氏の居館や刀一千口を納めたと伝わる武器庫などが建っていた可能性があります。