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1. 影媛あわれの石碑

影媛あわれの石碑

場所

櫟本町、和爾下神社の参道脇

作者

不詳

出典

『日本書紀』武烈天皇即位前紀

詠み

石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過(す)ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過(す)ぎ
物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過(す)ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過(す)ぎ
妻隠(つまこも)る小佐保(おさほ)を過(す)ぎ
玉笥(たまけ)には 飯(いい)さえ盛(も)り
玉?(たまもひ)に 水(みず)さえ盛(も)り
鳴(な)き沾(そぼ)ち行(ゆ)くも 影媛(かげひめ)あわれ

意味

 影媛は、以前から交際していた平群(へぐり)の鮪(しび)が、太子(後の武烈天皇)の命で大伴金村(おおとものかなむら)の軍に乃楽(なら)山で殺されたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。

 ここ櫟本は、山の辺の道と都祁(つげ)山道との衝(ちまた)に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝(ようしょう)であった。

 媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。都祁山道を挟んで、南には物部氏、北には和珥(わに)氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母、春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)は、雄略天皇が和珥臣深目(わにのおみふかめ)の女(むすめ)童女君(おみなぎみ)に生ませた女である。影媛は物部の麁鹿火大連(あらかいおおむらじ)の女である。

                     -石碑横の説明版より-

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