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約1万年前から 天理の歴史

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古墳時代

 古墳時代初頭(3世紀の中頃)になると、桜井市北部に初期ヤマト王権が成立します。
 初期ヤマト王権の中心は、桜井市の纒向(まきむく)遺跡とされますが、その北側に位置する柳本地域でも、同時代の遺構や遺物が見つかっており、その一角を占めていた可能性があります。
 また、柳本地域の「柳本古墳群」と萱生地域の「大和(おおやまと)古墳群」に桜井市の「纒向古墳群」を加えた三つの古墳群は、総称として「オオヤマト古墳群」と呼ばれています。
 これらの古墳群には、箸墓古墳・景行天皇陵・崇神天皇陵・黒塚古墳・中山大塚古墳・波多子塚古墳・西殿塚古墳・東殿塚古墳など、古墳時代初頭から前期の大型の前方後円墳や前方後方墳があり、初期ヤマト王権の中枢を担った人々の墓とみられます。
 市内の中程、豊井町、布留(ふる)町、三島町、杣之内(そまのうち)町にかけては、弥生時代末から始まる布留遺跡があり、ヤマト王権の軍事を司った物部氏が居住していました。
 物部氏が祭祀を司った石上神宮は七支刀(国宝)で有名ですが、その北を流れる布留川近辺の発掘調査では、5世紀~6世紀代の総柱建物跡・竪穴住居跡・大溝・工房跡・刀装具の破片、玉、鉄滓(てっさい)、馬の歯などが多数出土しており、物部氏の活動の一端が伺えます。
 物部氏の奥津城である「墓域」は、布留川左岸の南側に拡がる杣之内古墳群と、右岸の北側、豊田山丘陵上に拡がる石上・豊田古墳群が築かれています。
 物部氏の本拠地は現在の大阪府八尾市とされますが、布留遺跡にいつから居を構え、石上(いそのかみ)神宮の祭祀を司るようになったかはまだよくわかっていません。587年、物部守屋は蘇我馬子との戦いに破れ、大阪の本拠地は蘇我氏に接収され、跡形もなくなってしまいます。
 しかし、布留遺跡では、石舞台古墳と同時期で、石室もほぼ同じ規模の塚穴山古墳が造られています。さらに、集落は飛鳥・奈良時代にへと継続しています。このことは、布留の物部氏は守屋と馬子の争いに深く関わらなかったことを物語っています。
 日本最古の道といわれる「山の辺の道」は、桜井市の金屋あたりから大神(おおみわ)神社・石上神宮を通り、奈良へ抜ける道でした。この道沿いには、万葉集に詠まれた場所がたくさんあります。当時、この道はヤマト王権にとって大変重要な道で、多くの人が行き来したものと思われます。
 当時の詳細なルートは不明ですが、景行天皇陵、崇神天皇陵の近辺を通る南北の道だったようで、現在は桜井市の金谷から石上神宮までの東海自然歩道が「山の辺の道・南ルート」として整備されています。
 石上神宮から北は「山の辺の道・北ルート」とされ、この道を北へ進むと櫟本に到ります。ここには7人の天皇に9人の后妃を出したとされる古代の豪族「ワニ(和爾・和珥)」氏が居住していました。
 現在の和爾の集落が居住域と見られ、南に広がる東大寺山古墳群や北側の寺山古墳群などが一族の墓域と考えられています。東大寺山古墳群には、後漢末の年号をもつ鉄刀(国宝)が出土した東大寺山古墳、史跡赤土山古墳、和爾下神社古墳など前期の大型前方後円墳を見ることができます。
 この時代、市内ではたくさんの古墳が造られています。これらは先に挙げたワニ氏に関わる北部の櫟本近辺、布留氏に関わる中部の布留近辺、そしてヤマト王権に関わる南部の柳本近辺に分けることができます。中でも柳本には、その数600~1000基といわれる古墳時代後期の龍王山古墳群が所在します。そのほとんどは小規模な円墳ですが、数的には全国トップクラスとなります。

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