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天理の歴史


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近世

 中世の争乱も織田信長と豊臣秀吉の天下統一により、収束し、近世を迎えます。大和は織田信長を後ろ盾とした筒井順慶の元に統一され、その後、豊臣秀長が郡山城主となりますが、豊臣氏の没落と共に徳川方の勢力圏となります。
 しかし、大和の所領は複雑で天領、大名領、社寺の朱印地などが入り乱れ、明治時代まで大和が一つにまとまることはありませんでした。市内も例外ではなく、一村が二分されて領主が異なる「入組地」も存在しました。
 文化年間(1804~1817年)の記録には所領の数、25ヶ所とあります。主な所領としては、柳本藩、津の藤堂藩、東大寺領などです。
 柳本藩は石高一万石で、藩祖は織田尚長です。尚長の父は織田信長の弟、織田源吾長益(有楽斎)で、尚長は五男にあたります。東京の有楽町は有楽斎が住んでいたことから付いた地名です。柳本藩に城はなく、二町四方の柳本陣屋を政庁としました。
 この時代、市内で栄えた集落として、桜井と奈良を結ぶ上街道沿いの櫟本村と丹波市(たんばいち)村、柳本村の三村があります。


明治以降

 明治維新を迎えると、割拠されていた大和が一つにまとまっていきます。明治4年の廃藩置県により、それまでの所領は廃止され、市内は柳生県、柳本県、柴村県、津県もしくはその一部にまとめられます。
 その後、奈良県が設けられますが、堺県、大阪府に編入され、明治20年に奈良県が再設置されて、今日の姿に至ります。
 また、明治初期の廃仏毀釈により、「大和の日光」といわれた内山永久寺をはじめとして、市内の多くの寺院が廃寺となり、多くの貴重な文化財が散逸してしまいました。
 本市の前身は明治21年の「町村制」により誕生した7村が基盤です。明治26年には、山辺村、櫟本村、柳本村の3村が町制を敷き(山辺村はその後、丹波市町と改称)、地域の中核となります。
 そして、昭和29年、6町村が合併して「天理市」が誕生しました。
 市の名称は、天保9年に三島町で始まった天理教に由来しますが、参拝者の増加にともない市街地も拡大していき、今日の景観となっています。


 

 以上、大まかな天理の歴史をご紹介しました。現在の天理市は西名阪自動車道、名阪国道、京奈和自動車道、JR、近鉄など、交通の便に恵まれた地に立地します。
 大阪へ鉄道で約1時間の距離でありながら、大和青垣国定公園に含まれ、山の辺の道を中心に万葉のロマンに触れることのできる場所でもあります。

 多くの皆さんに天理へ訪れていただき、心に残る発見をしていただければ幸いです。

 

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