古代
古代に入ると、市内では、奈良と桜井・橿原を結ぶ上ッ道、中ッ道、下ッ道が整備されます。7世紀中頃のことです。交通網が整うにともない、天皇の宮は桜井地域から離れ、盆地のあちこちで営まれるようになります。はっきりとした場所は不明ですが、市内では安康天皇の石上穴穂宮や仁賢天皇の石上広高宮があったと伝えられています。
櫟本では前代に活躍した「ワニ」氏から大宅、柿本人麻呂を輩出した柿本氏、櫟井氏、在原業平を排出した在原氏、粟田氏、小野妹子を輩出した小野氏などの諸氏に分かれ、この地域に居住しました。
布留の物部氏は、天武天皇の時に石上朝臣の姓を賜り、奈良時代から平安時代初期にわたり、石上氏として上級貴族の地位を保ちます。
柳本地域では大倭氏が代々「大和神社」の神主を世襲しました。この大和神社は創建が古く、崇神天皇即位6年に宮中内から移され創祀された、との記録が残っています。
また、弘法大師の開基とされる長岳寺は、大和神社の神宮寺とも伝えられ、広い寺域と多数の寺坊を有していました。
大和高原の福住地域は、この頃、都祁(つげ)郷の一部となっていました。この地域には古くから、冬の間に氷を切り出して保存し、夏に朝廷へ献上する氷室(ひむろ)があり、皇室との関係が深い地域でした。氷の献上は近世初頭まで続けられたそうで、現在も氷室跡の大きな窪みを見ることができます。
中世
中世には貴族や社寺による荘園の開発が盛んになりますが、大和では東大寺や興福寺など南都寺院の勢力が伸びてきます。市内でも石上神宮・大和神社・興福寺・東大寺や皇室・豪族などの支配が広がります。
その中にあって、長岳寺や内山永久寺は隆盛を誇りました。特に内山永久寺は12世紀に鳥羽院の御願によって開基されたと伝えられる大寺院で、多くの諸堂塔の他、幾つもの坊舍があり、「西の日光」と言われるほどに栄えました。
その後、南北朝以降になると全国的に武士が台頭し、寺社領を支配下に収めていきます。市内では十市氏、豊田氏、福住氏、山田氏、苣原氏、仁興氏、藤井氏などの武士がいました。これらの武士は大小の山城を構え、守りとしましたが、さらに小さな武士集団は、集落を掘や土塁で囲んで守りとしました。萱生町、竹之内町、別所町などでその名残を見ることができます。