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オススメ 散策コース

はにわの里コース

古代豪族・ワニ氏と宿場町・櫟本を巡る路

 北部の櫟本町・和爾町近辺を巡るコースです。
 櫟本は古くから交通の要衝として栄えてきた街です。
 また、大和政権時代、多くの天皇に何人もの后妃を出したといわれる古代豪族・「ワニ」(和珥・和爾)氏が住んだ地でもあります。
 古墳時代から近世まで続く、歴史の面影を満喫してください。

コース紹介

 櫟本は古墳時代の有力な豪族である「ワニ」氏が居住していた地で、一族とされる在原業平や柿本人麻呂などにゆかりのある土地です。
 また、古くから交通の要衝で、大和高原や奈良、斑鳩、そして桜井、飛鳥とを結ぶ土地としても栄えてきました。
 ここには古墳や神社・古代寺院跡など、歴史を秘めたポイントがたくさんあります。
 まさに、いにしえのロマンと万葉びとの心にふれるコースといえます。

JR櫟本駅
在原神社
和邇下神社
白川ダム
楢神社
JR櫟本駅
区間距離所要時間
JR櫟本駅~白川ダム~JR櫟本駅10km3時間

発見コラム

古代歴史の宝庫

 櫟本地域は山の辺の道、上ッ道(後、上街道)、横大路などが通り、古くから交通の要衝として栄えたところです。
 そのため、弥生・古墳時代の集落、東大寺山古墳群、楢池廃寺、長寺跡、柿本廃寺、在原廃寺、願興寺跡などの古代寺院、古代から続く和爾赤坂比古神社、楢神社、和爾下神社、在原神社など、歴史上知られるところがたくさんあります。
 これらは、この地域に居住した「ワニ」氏とその一族との関係で考えられています。
 「ワニ」氏とは大和の在地豪族で、応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の7天皇に9人もの后妃を出しました。この数は諸豪族の中でも最も多く、天皇家との関係の深さを物語る一例といえます。
 文献史学の著名な研究者として知られる故岸俊男氏は、「ワニ」氏の居住地をこの地域とし、現在の和爾の集落をその中心地とされました。
 この地は大和から北陸や東国へ進むには交通の要衝であり、「ワニ」氏は初期大和王権の国土統一という過程で、重要な役割を果たした集団と位置づけ、6世紀中頃の欽明朝に、春日と氏を改め、本拠を少し北方の春日地域に移したとされました。
 春日氏への改姓と本拠の移転については、今では少数意見のようですが、この地に「ワニ」氏の本拠があったことは、ほとんど異論がないようです。
 また、この頃には、「ワニ」氏は大宅、柿本、櫟井、粟田、小野などの諸氏に分かれています。これらの諸氏からは、小野妹子や粟田真人、柿本人麻呂などが輩出しました。
 また、名阪国道北側の東大寺山丘陵には、東大寺山古墳群があり、「ワニ」氏によって築かれた奥津城と考えられています。
 その中で特に注目されるのに、東大寺山古墳があり、「中平」銘をもつ鉄刀が挙げられます。
 昭和36、37年の発掘調査で、主体部からたくさんの武器や武具、石製品などが出土しました。その中に刀背に24文字の銘文をもつ鉄刀1振が含まれていました。「中平口年五月丙午造作(支)(刀)百練清剛上応星宿(下)(辟)(不)(祥)」(口は文字不明、かっこ内は推定文字)の金象嵌で、中国、後漢末の年号、「中平」(紀元184~188年)が刻まれていました。
 後漢末「中平」の頃、倭国は大いに乱れ、188年には卑弥呼が王に擁立されています。東大寺山古墳の築造は4世紀後半から5世紀初頭で、「中平」の時期とは200年の開きがあります。
 卑弥呼に下賜された五尺刀とこの鉄刀との関係、この鉄刀が古墳に収められるまでの経路、また、なぜ、この古墳に収められたのかなど、考えなければならないことがたくさんあります。
 しかし、最も重要なのは歴史の重要な場面を経てきたこの鉄刀が「ワニ」氏の奥津城で出土したことでしょう。
 「鉄刀」と「ワニ」氏、両者にはどのような結びつきがあるのでしょう。しばし、歴史のロマンを感じてください。

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